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旧 新 橋 停 車 場  

 日本の鉄道発祥の地 新橋停車場 同じ場所に駅舎が復元されている

 江戸時代初期に埋め立てられ,三代将軍家光のころ,仙台藩伊達家・会津藩保科家・龍野藩脇坂家の江戸屋敷であった汐留の一角にわが国初の鉄道建設のための最初の測量杭が打ち込まれたのが1870(明治3)年。
      復元された旧新橋駅舎(正面)

当時の建物をそのままに2003年に復元したもので,明るさと軽やかさを感じるとても洒落た建物。大正時代にできた赤レンガ造りの東京駅とはかなり趣が異なる。   
この頃はまだドイツやイギリス建築に傾倒していなかったのか?

開業直前に撮影された駅舎の写真や発掘調査で明らかにされた駅舎基礎とプラットホーム遺構に基づいて往時と同じ外観で同じ場所に再現されている。         

設計:日本設計・JR東日本建築設計事務所JV
施工:大成・鹿島・竹中JV             

 ♪汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり...♪と「鉄道唱歌」で歌われた新橋停車場。1872年 新橋~横浜(現桜木町)間に正式開業した日本初の旅客鉄道の起点駅かつ東京の玄関として日本の近代化を象徴する場所となる。
 1914年東京駅開業後は貨物専用の汐留駅として日本経済の発展を支え,1986年その使命を終え114年の歴史を閉じた。
 跡地の再開発に先立ち行われた埋蔵文化財発掘調査(1991)の結果,旧新橋停車場駅舎とプラットホームなど構内の諸施設の礎石が発掘され,1996年,その遺構が「旧新橋停車場跡」として国の史蹟指定を受けた。
 現在,駅舎は,外観をできるだけ忠実にという設計思想の基,当時と同じ位置に再現されている。建物の内部には「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」があり,駅舎基礎石積み・駅舎玄関遺構・プラットホーム遺構・再現プラットホーム・再現軌道などを見ることが出来る。

 



 参考ウェブサイト
 旧新橋停車場のご案内(財団法人東日本鉄道文化財団)
 旧新橋停車場復元計画の経緯


       開業直前に撮影された駅舎 左:駅舎正面 右:駅舎背面とプラットホーム(展示パネルより)

 アメリカ人R.Pブリジェンスの設計による木骨石張り構造で1871(明治4)年5月着工,同年12月完成し,西洋建築がまだ珍しかった時代の東京で鉄道開業に合せて整備された銀座通りに向かって威容を誇っていたという。   

1914(大正3) 新設の東京駅に旅客ターミナルの機能が移り,山手線烏森駅が新橋駅の名称を引き継ぎ,旧駅は貨物専用駅として汐留駅と改称。                                                
1923(大正12)年9月1日 関東大震災で焼失し,1934(昭和9)年から始まった汐留駅改良工事のため残存していたプラットホームや構内諸施設も解体された。                                        

       
        正面玄関の階段遺構


 石質は,伊豆下田周辺から切り出された凝灰岩の一種である”伊豆斑(まだら)石”。
 
 プラットホーム石積みや,駅舎基礎石積み,駅舎外壁にも使用されている。

 *伊豆石について
伊豆石は大きく分けて安山岩と凝灰岩がある,旧新橋駅舎に使用されているのは後者。
 安山岩は硬い石で火山の溶岩が固まったもの。江戸城を始めとする石垣に利用された。
もう一つの伊豆石,凝灰岩(軟石)は火山礫や火山灰が固まったもので構成粒子の違いで出来る層理面が美しく装飾的な部分にも多様された。江戸後期~明治時代の洋風建築に,その色合いの良さからさかんに利用された。現在はほとんど採掘されていない。
 往時の採掘跡空洞を,温泉浴室として利用しているホテルが下田にある。

                                                

     
     復元された軌道とプラットホーム


 復元駅舎の裏側にはプラットホームと軌道が再現展示されている。
 当時の軌道は枕木やレールの台座が砂利で被せられレールの頭だけ地表に出ていた。レールの断面は上下対称のI型で双頭レールと云われる。イギリスダーリントンで製造され輸入された。
 官営鉄道で使用された後,新潟県柏崎市の製油所で使われていたものが寄贈され数メートル分だけ復元されている。
 
 車止めの後ろに「0哩標」が開業当時と全く同じ位置に設置されているが,ポストそのものは真新しく本物ではない。   

 わたしが会社勤めを始めた頃の7~8年間,旧新橋駅が建っていた場所のすぐ脇の道をそれと知らずに毎日通っていたとは思いも寄らなかった。
 その頃はまだ,汐留貨物駅は現役として活躍していたのをまのあたりに覚えている。
 現在,一帯は,汐留シオサイトと呼ばれ高層ビルが林立するビジネスセンターに変身した。わたしが垣間見た広大な汐留貨物ターミナルの面影はおろか,ましてや新橋ステンションの片鱗すら感じられない。
 復元された駅舎と僅かに残された遺構が,わが国鉄道発祥の地を偲ぶよすがとして保護され続けられることを祈る。